MINI BLOG

2016.09.20公開 / 2018.09.17更新

新たなステージ、エボ・モデルの復活<’90年代> 〜ミニの歴史と時代背景〜

田代さんサムネ画像

 

元ミニフリーク編集長 田代基晴さんをライターに迎えた新企画 第4回。エボリューションモデル、1300ccエンジンの復活や日本独自の仕様となった最終モデルから生産終了まで。ミニの歴史シリーズは今回で最終回です!完全保存版!

 

【archives】

ミニ誕生から黄金時代<’60年代> 〜ミニの歴史と時代背景〜

合理化と発展<’70年代> 〜ミニの歴史と時代背景〜

日本マーケットの人気高騰で息を吹き返した<’80年代> 〜ミニの歴史と時代背景〜

 

 

ローバー・グループとしての新たな船出

 極東の島国。しかも自国の屋台骨となるような基幹産業に、驚異の急成長を遂げて世界に冠たる自動車産業が存在する。その製品の完成度の高さもさることながら、消費層がもつ独自の価値観と製品に対する要求度の高さは、この国特有のものがあるがゆえに、輸入車が根付くには大きな垣根がある。そんな奇怪な国で、驚いたことにミニは爆発的なヒットを迎えてしまうのである。’80年代後半のことだ。

 

4-1-1_DSC_2636 (499x750)1986年にBLMCはローバー・グループとなる。半官半民だったBLのオースチン・ローバーやランドローバー、レイランド・トラックなどのBL傘下のグループが完全国営化されたのだ。伝統と共に存在していたオースチンやモーリス、ライレーやウーズレイ、ヒーリー、トライアンフといったブランドは消滅し、ジャガーやレイランドなどは売却。MG、ランドローバー、そしてローバーのみが残った。ゆえに、日本国内でミニがエクスプロージョンしたときの車名はローバー・ミニとなるのだけれども、我が国にあってもクーパーの浸透度は高かったようで、名称として広く一般的に認知されていたのはミニ・クーパーの方だった。まぁ、おばさんたちに「あら、ミニ・クーパー。カワイイ自動車ね…」と言われると、いちいち訂正するのも面倒になる。体勢に影響なしだ。もっともその状況は時を経た現在であっても、さして違ってはいないのだが…。

 

エボリューション・ミニが、’90年代を切り開く

日本独自のアプローチとしてレーシング(グリーン)、フレイム(レッド)、チェックメイト(ブラック)をラインアップしたクラブマンシリーズの展開で幕を開けた’90年代。前年、1989年のミニ世界販売台数はおよそ4万台だったのだが、実にその25%となる1万台近くが日本の販売台数となり、本国英国の1万3千台に次ぐ台数を記録した。’70年代を経て、’80年代に入り下降の一途を辿っていたミニの生産台数が’87年を堺に’90年代に向けて上昇に転じたのは、日本でのミニ人気がその要因なのは明らかだ。

 

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そうした風向きの中で、1990年10月にミニは大きなトピックを発信する。そのひとつが『ERA TURBO』、そしてもうひとつが『COOPER』である。言わずもがな、クーパーはミニのエボリューション・モデルとして確固たる地位と名声を築いてきた。ERAターボに至っては、その開発コンセプトが「パフォーマンス、コンフォート、ハンドリングを現代水準にまで引き上げた’90年代のミニ・クーパー」としていた。

 

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奇しくも’90年代を迎えた同時期に、ハイポテンシャル・モデルを異なるアプローチから具現化した、ふたつのプロジェクトがお披露目されたのである。知名度や本流との距離感に分があるクーパー・モデルにその後の流れは集中していくものの、この時期にミニ史上初となったターボモデルがラインアップされたことは特筆に値する。当時、ターボモデルはフレイムレッド、ブリティッシュレーシンググリーン、ブラック、そしてごく少数のホワイトダイヤモンドの4色(資料によるとシルバーもあるようだが、ブロウシャには記載されていない…)、500台弱が生産されたという。日本にはその中から赤と緑の2色のみではあるものの、実に約330台が正規輸入されたのである。

 

1300ccエンジンが、ミニのラインアップに帰ってきた

さて、ミニ・クーパー。’69年を最後に生産を終えたクーパーモデルが実に20年ぶりに復活したのである。’80年の1275GTの生産終了以降途絶えていた1300ccのエンジンが、ミニのラインアップに帰ってきた。当然のことながらクーパーの復活にはジョン・クーパーの存在を忘れることはできない。クーパーモデルの生みの親であるから、その存在は欠くべきものでないのは当然のことなのではあるが、その復活には我が国日本のミニ人気も大きく関わっているのは間違いないのである。

’80年代後半、日本でのミニ販売数が着実に伸びていることを背景に、ジョン・クーパーを始め、多くの人間がエボリューションモデルの復活をメーカーにアピールしたという。しかし、簡単にはことは進まず、先行して日本国内でクーパー・パフォーマンス・コンバージョン・キットが個別に販売されたのである。そのパッケージは木箱に収納され実に魅力的だった。

 

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日本ではミニマルヤマがリリースした。日本での好調な売れ行き、そしてジョン・クーパーのアプローチの結果、本国ではまず、メーカー承認のディーラーオプション・チューニングキットとして、当時のレーシング/フレイムのブロウシャ(本国版である…)に記載。そしてついに、限定モデル生産へと歩を進めて、ミニ・クーパーは復活を果たすのである。

 

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ミニ・クーパー1.3の生産数は1000台。そのうち600台が日本での販売枠だった。発表するやいなや、予約が殺到し、発売日前に全てが売り切れた。

この好調な販売はミニ1.3時代の幕開けだった。限定クーパーの発売日からおよそ1ヶ月半後、ローバー・ミニ・クーパー1.3は量産モデルとして販売されるのである。往時のミニ・ラインアップはクーパーを含めて6車種。当時の広報資料ではラグジュアリーモデルの『メイフェアII』、ファッショナブルモデル『メイフェア』、ベーシックモデルに『スプライト』、スポーティモデルとしてホワイトルーフの『クラブマン』、そしてスペシャルなアーバンスポーツ『ERAターボ』とカテゴライズされていた。’80年代とはうって変わった華やかさである。’90年代の幕開け、それは日本のマーケットがミニを支えていた。1990年、日本でのミニの販売数は1万3千台。本国の販売数を超えるという、驚きの数字だった。

 

純日本仕様の’97モデル、ミニの愉しさを育てていこう

冷静に考えれば、いくら東洋の一国で好調な販売を記録していたとはいえ、ミニのためだけに開発が行われる道理がない。現実的には、ERAターボ、クーパー共に当時のメトロ、メトロターボに装備されていた部品を流用することで成立したのである。べつに悲観することではなく、’80年代を通じてミニが残ったことと、メトロによってメーカーが息を吹き返して永らえたことが最大のラッキーだったのだと思う。

そうしてミニは、1991年10月にシングルポイント・フューエルインジェクションと三元触媒を装備して新たなるステージに進化し、1.3iモデルが主軸になった。もちろん、原資はメトロのパワーユニット、厳しくなる排気ガス規制への適応もクリアし、さらにミニは永らえるのである。

 

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1997年、いよいよ次世代ミニの情報が巷に流れ始めた頃、驚いたことにミニは、さらなるビッグマイナーチェンジともいえる進化を成す。いわゆる最終モデルと呼ばれるシリーズだ。ここでトピックとしたいのは、ミニの40年にわたる歴史の中で初めて日本独自の仕様が設定されたことだ。つまり、本国で販売されたミニと日本で販売されたミニは別ものなのである。

 

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欧州仕様はマルチポイントインジェクションとなりマネージメントも進化した。長らく横置きだったラジエータが前面配置となり、エンジン自体の設計も変更されたのである。が、日本ではオートマチックトランスミッションとクーラーの標準装備を最優先事項としたことから、シングルポイントインジェクションをキャリーオーバーして、日本独自のエンジンマネージメントとなった。

 

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生産終了が秒読み段階になった’97年に、どうして大々的な改変を施してまで生産時期を延長することになったのかは、いまだに解せない。勝手な想像をしてしまえば、新型に引き継ぐまで、ミニの生産を一時たりとも途絶えさせたくなかった。販路を継続的に確保することや50周年イベントを大々的に行ったことを思えば、あながち間違っていないと思う。いや、おかげでたくさんのオーナーが楽しい思いをしていることは間違いのないことで、ミニのラッキーなヒストリーとして甘受すべきなのだろう。

 

2019年はミニ生誕60周年、いったい何が起こるのか、今から楽しみではある。

とはいえ、すでに生産を終えてから15年以上の時を経て、ミニは名実ともにクラシックカーになった。確かに乗り続けるために多少の覚悟は必要だとは思うが、こんなに多くの仲間がいて、維持しやすい環境や遊べる場に恵まれたクルマは他にない。

ミニを大好きになってしまったボクらは、とてもラッキーな趣味人なのだと思う。

 

 

WRITER PROFILE

 

_GP21029田代(G)基晴(たしろ・ごーりー・もとはる) ミニより1歳年下の1960年生まれ。ミニ・フリーク誌のスタートから、はや四半世紀…、どっぷりミニ漬けの人生を過ごす。スクーバダイビングや自転車、カヌーや登山、アイスホッケーにまで手を出してきたシアワセものだ。制作全般が生業となるが、自称フォトグラファーである。現在は相模湖にスタディオを構え、趣味の伝道師を目指して精進している毎日。 会社はこちらGP・JUNOS

 

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