MINI BLOG
2016.09.06公開 / 2018.09.17更新
合理化と発展<’70年代> 〜ミニの歴史と時代背景〜
元ミニフリーク編集長 田代基晴さんをライターに迎えた新企画 第2回。前回では「黄金時代」といわれた、誕生からの60年代のお話でしたが、今回はその後の変化の時代となった70年代について。クラブマンシリーズの登場や最終モデルへと繋がるMk-IIIモデルの登場など、今回も目が離せません!
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ミニ誕生から黄金時代<’60年代> 〜ミニの歴史と時代背景〜
Contents
ミニは未来を模索していた
バリエーションにしても、コンペティションシーンでの活躍にせよ、黄金の時代とも呼べる’60年代を経て1970年代、状況は一変し、ミニはその存続を模索していた。’70年代に向けて当時のメーカーBLMCが行ったことはブランドの一本化やニューモデルの追加とともに、デビュー以来のラインアップ大幅見直しである。
その背景には、英国産業全体の不振があった。収益の低下には抗えず、合理化を含めた改革を果たさざるを得なくなったのである。メーカーは’70年10月にコンペティション・デパートメントを閉鎖、スペシャルチューン部門は存続したものの、伝説ともいわれる数々の誇るべきレコードを残したラリーシーンから、ついにワークスミニが撤退した。
モダンと合理化、荒波に揉まれ移ろっていく
従来からのミニはサルーンだけのラインアップに集約された。華やかだった製品群が一気に減速してしまう。オースチン、モーリスの歴史的なブランドもついに統合され、ミニのブランディングはBLだけとなってしまったのである。19世紀に誕生した伝統的なライレーやウーズレイといったブランドも’60年代を最後に姿を消すことになる。
しばらくの間は輸出モデルにだけオースチンやモーリスを示すバッヂが付けられていたが、それは各国の販売形態に対する考慮や急激な販売方針転換のネガティブイメージの緩衝策でしかなかった。
そうしてミニはMk-IIIへ
ボディパネルが大幅に見直され設計変更されたことから、開発コードはADO20とされた。今でこそいえることだが、最終モデルへと連なる直系のボディタイプである。
この時代の変化はビッグマイナーチェンジとして良いと思う。Mk-IIからの変換点はバッヂ類、フロントグリルの形状に加えて、先に話したように随所のボディパネルが変わっている。
その最たるものは、ライレー/ウーズレイが先行して装備していたワィンドアップ式のサイドウィンドゥを採用したことで、ドアパネルが袋構造になった。同時に、その増加した重量に対応するためにスカットルパネルの強化と併せて、ドアヒンジは保持力を高めたコンシールド(内蔵)タイプへと変更された。視野を広げたリアウィンドゥ、視認性を高めた角形テールランプのリアパネルはMk-IIからのキャリーオーバーだったが、ドアに始まる多くのボディパネルがMk-IIIモデルで変更され、モダンなスタイルへと変容しているのである。
英国流儀で言えば「新しいものは良くなっている」としたいところなのだが、冒頭にも記したように合理化を考慮した変革ゆえに、必ずしも全てが諸手を挙げて受け入れられるわけじゃない。例えば、ドアの内側。窓の巻き上げ機構を収納するために、旧来のモデルと較べて10cm以上も車室内の横幅が狭くなった。無造作にものを突っ込んでもゆとりで応える大型ドアポケットもなくなった。確かに、ドアスキン1枚では側突の基準などクリアのしようがないだろうけれども、残念ながら、狭さを感じさせない秀逸なミニのインテリアは’60年代で姿を消してしまったのである。
細かい言及はしないけれども、ギアボックスの形状も簡素化されて、エンジンのマウンティングがスポイルされてしまった事実もある。エンジンの揺れが、いまだにミニのウィークポイントだと語り継がれるのは、そのせいだ。
黄金にはなり得なかったが、健闘したクラブマンシリーズ
合理化と改善の狭間でその波に翻弄されながらも、健気にミニは進化していく。ボディタイプをMk-IIIとするのと時を同じくして、新たにフェイスリフトしたクラブマンシリーズを登場させるのである。
旧来モデルとの併売とし、モデルバリエーションを増やす方向でスタートしたとは言え、メーカーBLMCはかなりの期待度を持ってこの世代交代に望んだのは間違いないだろう。フロントフェイスのデザインはフォードのクルマを手掛けていたデザイナ、ロイ・ヘインズを起用。Mk-IIサルーンに採用していたハイドロラスティック・サスペンションをクラブマンシリーズのサルーンのみの装着にしてみたり、エステートボディもクラブマンシリーズで存続させる。また、クーパーに代わるスポーツモデルとして1275ccにスープアップしたシングルキャブレータのエンジンを搭載した1275GTをラインアップするといった念の入れようだ。販売の策略を練り、’70年代ミニの新たなる幕開けを狙っていたのは間違いない。
が、結果的にはニューフェイスを期待されたクラブマン、エステート、1275GTは’80年にその生産を終了してしまう。11年間の販売で、それなりの販売台数を記したとは言え、当時は歴史に名を残す存在にはなり得なかった。ミニのルックスは、やはりオリジナルデザインの丸っこい佇まいに軍配が上がることになる。
言わば、先代モデルに駆逐されてしまったクラブマンシリーズ、新世代への移行を期待し10年を掛けた販売戦略もBLMCにとっては皮肉な結果となってしまったが、ミニの底力を証明することになったのである。もっとも、この時点でミニの販売を終わらせなかったメーカーには、未来の我々から最大級の賛辞を贈りたい気持ちである。
もちろん、クラブマンファンが皆無なわけではなく、ミニシリーズの生産終了を機に、絶版モデルとして歴史的なポジションから見直されたことも事実だ。とくに、エステートモデルは製造年が新しいだけに注目度は高いし、実際のところ、クラブマンシリーズ終了の後もミニ1000HLエステートとして2年間は継続販売した事実もある。個人的にはボディフォルムも秀逸だと思っている。
サルーンボディとは、また違ったストーリーを歩んだモデルが’70年代に生まれたことは記憶にとどめておきたいものである。
WRITER PROFILE
田代(G)基晴(たしろ・ごーりー・もとはる) ミニより1歳年下の1960年生まれ。ミニ・フリーク誌のスタートから、はや四半世紀…、どっぷりミニ漬けの人生を過ごす。スクーバダイビングや自転車、カヌーや登山、アイスホッケーにまで手を出してきたシアワセものだ。制作全般が生業となるが、自称フォトグラファーである。現在は相模湖にスタディオを構え、趣味の伝道師を目指して精進している毎日。 会社はこちらGP・JUNOS
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